青春シンコペーション


第5章 ドキドキ彼女も居候?(2)


時計は9時半を回り、小さい子達は母親に連れられてそれぞれ家に戻って行った。
「ワインのお代わりは如何?」
美樹の母がボトルを持ってやって来た。
「どうも。いただきます」
何人かが手を伸ばす。

「ルドルフも来られればよかったのにね」
母の言葉に美樹も頷く。
「そうね。でも、今日は大事なお仕事があるから駄目なんですって……。一平君や増野さん達も来れないからって、差し入れを届けてくれたのよ」
残念そうに説明した。
「まあ、仕事じゃ仕方がないな」
父はそう言って皿の上の菓子を摘んだ。

「あの、眉村美樹さんですよね? 私、少々お話したくて……。よろしいでしょうか?」
彩香が近づいて来て言った。
「ええ。どうぞ」
美樹が微笑む。
「実は私、折り入ってご相談がありますの」
部屋の中には静かなBGMが流れていた。

「ねえ、お兄ちゃんはずっとハンス先生のとこにいるの?」
井倉の妹、澄子が訊いた。
「うん。申し訳ないけど、あと少しだけ厄介になろうかと思ってるんだ」
「それじゃ、日曜とかに遊びに来てもいいかな?」
澄子がもじもじと言った。
「いいけど、先生達にご迷惑掛けるんじゃないよ」
「もうっ! お兄ちゃんほど迷惑掛けたりしないよ」
妹に言われ、苦笑する井倉の目に、ハンスの姿が映った。しかし、何故かその表情が暗い。
(どうしたんだろう? 何だか様子が……)

彼は腕を抑えて俯いていた。そして、隠れるようにリビングから消えた。
(先生……)
井倉は澄子と別れ、慌ててそのあとを追った。

「ハンス先生、腕をどうかされたんですか?」
玄関ホールの壁にもたれていたハンスがちらとこちらを見て微笑した。
「井倉君……。やだなあ、僕を追って来たんですか?」
ホールの暗い照明がハンスの半身に影を落とした。
「もしかして、痛むんですか? その……」
泣きそうな顔で井倉が訊いた。
「大丈夫ですよ。さっき重い荷物を運ぶの手伝った時捻ったのかな? でも、もう何でもないです。ほら」
そう言うとハンスは両手を広げて左右に振った。しかし、左手の動きが僅かに重い。

「先生! 無理をしちゃ駄目ですよ!」
井倉はぎゅっとその腕を掴んで止めた。
「井倉君……」
ハンスが苦痛に耐えて吐息を漏らす。
「大丈夫なんです。本当に……。仕方がないんだ。僕はもうピアニストとしてはやれない。手術の後遺症で、長い時間弾くことができないんです」

「そんな……!」
井倉の瞳に涙が浮かぶ。
「どうして君が泣くですか?」
「だって……」
井倉は声を詰まらせた。
「今夜は楽しかったですよ。久々に思い切りピアノが弾けたし、君や彩香さんがコンクールでいい成績を残してくれたのだから……」
「でも、先生は……」

「黙っていてくださいね。このことを知っているのは美樹とルドルフ、それに黒木さんだけですから……他の人には言わないで……」
「……わかりました」
井倉は涙ながらに約束した。

そこへ、いきなりドアチャイムが鳴った。そして、勢いよくドアを開け、フリードリッヒが入って来た。
「考えてみれば、行きは車で来たので、私は帰り道知りませんでした。それに、彩香さんを家までお送りしなければ、私のナイトとしての責任が果たせません」
「それはいったい何の話さ?」
事情を聞いていなかったハンスは唖然として彼を見つめた。しかし、彼は大仰に頭を振って言った。

「いや、そんなことはもはやどうでもいい。私は気が付いたんだ。外の空気に当たって、頭が冷静になったからね」
フリードリッヒは興奮したように叫んだ。
「おお、ハンス、私達は出会うべくして出会った運命の友なのだ!」
「運命?」
ハンスが怪訝な顔を向ける。
「わからないか? 私達は共に選ばれた者なのだ。いいから一緒に来てくれ。実証した方が早い」
言うなり彼はいきなりハンスの手首を掴むと引っ張った。一瞬表情を歪めたハンスを気遣うように井倉がそれを阻止しようとした。
「待ってください。いきなりそんな乱暴な……」

しかし、フリードリッヒは構わずハンスをリビングまで連れて行くと、強引にピアノの椅子に座らせた。
「どういうつもりだ?」
ハンスが訊いた。
「もちろん連弾するんだ。君と私とでだ。二人の才能を合わせれば、誰にも決して真似のできない完璧な演奏が実現する。そうだろう?」
「なるほどね」
ハンスは軽く手首を摩りながらその顔を見上げた。

「そんな……やめてください。ハンス先生は……」
井倉が必死に止めようとした。が、ハンスが軽く手を振り、井倉を下がらせた。
「大丈夫。軽く合わせるだけならば問題ない」
「でも……」
心配そうな井倉。
「では、OKだね? 何を弾く?」
フリードリッヒがうれしそうに訊いた。
「そうだな。シューベルトの軍隊行進曲なんかどうだろう?」
ハンスが提案すると彼も頷いた。

「おい、見ろよ。二人が弾くらしいぜ」
「すごい! まさに夢の共演だ」
皆が囁き合った。
「ハンス……?」
美樹がそちらを気にして振り向いた。が、彩香がその前に立って言った。
「では、今の件、承知していただけますね?」
「え、ええ」
美樹は慌ててそう返事した。
「ありがとうございます」
彩香が満足そうに会釈する。

BGMが中断し、皆の視線がピアノの前にいる二人に集まった。
「ほう。これはなかなか興味深い展開だな」
黒木が呟く。
「生きててよかった……。こんな素晴らしい共演が聴けるなんて、黒木さん、本当にありがとうございます。今日、私をここへ連れて来てくれて……」
藤倉が震える声で感謝した。
「黒木先生、ハンス先生が……」
井倉が切迫したような声で訴えた。が、藤倉が怪訝そうな顔を向けたので、仕方なく黙り込んだ。その肩にそっと手を置いて、黒木が頷いた。すべては承知している。だが、今は何も言うなと、その表情が諭す。

「ん? ハンス先生がどうかしたんですか?」
藤倉が声を潜めて訊く。
「いえ、何でもありません」
井倉はそう言うと俯いた。藤倉はハンスの方を注視したが、彼はじっと正面を見つめ、フリードリッヒに何やら指示を送っている。

ふと見ると、背後では、金髪にそばかすのあるアメリカ人の青年がカメラを構えていた。
「おい、ここではカメラは厳禁じゃないのか?」
藤倉が咎めるように言った。
「僕は特別。ハンスのお友達ですから……」
「特別だって? しかし……」
藤倉は納得が行かなかった。撮影はくれぐれも控えてくれと黒木から念を押されていたからだ。

「だったら、あとでその写真、私にも回してくれませんか?」
「それは……」
青年が困惑する。
「何か問題でも?」
「僕も一応プロなので……」
「プロ?」
「マイケル・アンダーソンと言います」
「知らないなあ」
藤倉が首を傾げる。
「とにかく、素材をお渡しすることはできません。お気の毒ですが……」
それを聞いて、藤倉はがっかりした。
「それよりもほら、演奏が始まりますよ」
マイケルに言われて、彼は慌てて耳を傾けた。

静寂の中に射し込む光の粒がはらはらと舞って空間を満たして行く……。
それを見つめる瞳と瞳。
ピアノに向かう二人の呼吸がやがて一つに重なり、世界の始まりを告げるような第一音がリビングに響き渡った。
(感応的だ。何処までも透明に研ぎ澄まされている。鮮烈なのに絡み付くようなこの色気。何というエキサイティング。そして、秀逸。動けない。まるで引力の底に引きずり込まれて行くようだ)
藤倉は呆然と目を見開いて二人を見つめた。
(これが『軍隊行進曲』だって? いいや、違う。信じられないくらい美しい……。まるでこのまま天国へ続く階段を昇り詰めて行くような……)
観客は逃れられない罠の中で、身動きできず、自らがこの世に存在していることさえも忘れて聞き入った。

そして、最後の一音が途切れ、余韻の中でキャンドルが燃える。
「ブラボー!」
真っ先に声を上げたのは演奏者のフリードリッヒだった。
「パーフェクトだ! 思った通り、いや、それ以上に君となら完璧な演奏が出来る」
彼はハンスの元に駆け寄るとその手を取り、強く抱き締めた。

「ふざけるなよ! 何が完璧だ!」
ハンスは怒っていた。その手を乱暴に振りほどいて抗議する。
「フリードリッヒ! おまえ、繰り返しのトップとコーダのところで、和音の一音、わざと弾かなかったろう?」
「そうさ。それを君は完璧にカバーした」

それを聞いた藤倉は驚嘆した。
(何だって? ピアノは向かい合わせ。彼の手元は見えなかった筈だ。なのに……。まったくの遅れもなく、それを完璧にカバーしただって? 有り得ない。私だって耳には自信がある。それに、ここには黒木さんを始めとする音楽関係者だって大勢いたというのに……。気がつかなかった。まるで……。彼はいったい何者なんだ)

「そうだ。だからこそ、私とパートナーを組める者は君しかいない。行こう! 二人で世界中に音楽を、希望を届けて回るんだ」
フリードリッヒは続けた。その頬は紅潮し、瞳はきらきらと輝いていた。呆然としていた人々の何人かが夢から覚めたように拍手した。

「冗談じゃない。僕はおまえのパートナーなんかになれない」
ハンスがきっぱりと断った。
「何故だ!」
フリードリッヒが更に顔を赤くして叫んだ。
「世界中に希望を届けて回るのはおまえじゃない。それは井倉君の役目だからさ」
「何だって? こいつはまだほんの駆け出しのひよっ子じゃないか。私とは比べ物にならない」
フリードリッヒが声を荒げた。いきなり名指しされた井倉も驚いてハンスを見つめる。

「ねえ、井倉君。それが君の夢なんだよね?」
平然とハンスが訊いた。井倉は返事に詰まった。
「はじめに出会った時、そう言ってたでしょう?」
「は、はい。確かにそう言いました。でも……」
錚々たるメンバーに囲まれて井倉はおどおどと尻すぼみな声で言った。

「それに、ここには将来が期待される彩香さんだっている。だから、僕はこれからも、若い彼らの才能を大切にして行こうと思うんだ」
「ハンス……」
美樹はそんなハンスの姿を見てほっとしていた。日本に来たばかりの頃には、ピアノに触れることさえ拒んでいた彼がそうやって新たなやり甲斐を見出せたことに強い共感を抱いたのだ。

「先生……」
井倉は感激していた。
「僕、頑張ります。とてもご期待には添えないかもしれないけれど、僕……」
涙を流している彼の両脇から両親と妹が来て言った。
「頑張れよ」
「お父さん……」
ずっと音大に行くことを反対していた父が、今は自分を理解し、応援してくれている。それがたまらなくうれしかった。

「身体に気をつけるのよ」
母も言った。
「きっとプロのピアニストになってね」
澄子も兄の手を取って励ました。
「そうだ、優介。どうせやるならとことんやれよ」
「ありがとうございます。お父さん」

飴井もそれを見て微笑み、頷いている。
「僕、頑張ります」
井倉の言葉に皆も感動し、拍手が起こった。マイケルが何度もフラッシュを炊いた。

「井倉……。私だってあなたになんか負けないわよ」
彩香が呟く。
「ええ。きっとあなたなら素晴らしい演奏家になれますよ」
藤倉が保証した。
「それに、どうです? 若い人は若い人同士。彼とパートナーを組んでは?」
そう提案して来た藤倉に対して彩香が猛烈に反論した。
「パートナー? いいえ、とんでもありませんわ。ハンス先生の指導で、ようやくここまで昇って来れたとしても、私は更に先を行く。そして、もう一度突き離してみせる。今度こそ思い知らせてやるんだわ。真の実力の差というものをね」
「はは。それはなかなか手厳しい」
藤倉は頭を掻いた。

「私は諦めない」
ハンスのうしろでフリードリッヒが呟いた。
「これほどの実力者が再び現れるとは思えない。だから、私は何としてでも手に入れる。君が何と言おうとね」
固い決意でそう言った。
「ふ。まえにも言ったと思うけど、おまえとは所詮そりが合わないんだ。用が済んだら、とっととドイツへ帰ってくれ」
ハンスが振り返って言った。
「帰る? いいや、私は残る。君がうんと言ってくれるまではね」

「有り得ないよ。僕はおまえが大嫌いなんだ」
「いや、有り得る。君がどう思おうと、私達はそうなるべきなんだ」
明るい金色の髪を靡かせてフリードリッヒは熱弁した。
「僕は知らない。いたけりゃ好きにすればいい」
ハンスは彼を無視してテーブルの方へ歩むと、そこにあったグラスを持ち、一気に酒を飲み干した。

「はっはあ。どうもこいつは一波乱ありそうだな」
飴井が肩を窄めて宙を見た。
「いや、それくらいで丁度いいんですよ。互いにぶつかり合い、切磋琢磨してこそ才能は磨かれて行くんです」
彼の傍にいた黒木が笑う。
「そんなもんですか?」
「そんなもんですよ」
教授は愉快そうだった。

「さあさ、皆さん、サンドイッチは如何?」
美樹の母が大皿を運んで来た。
「わあ! 僕、いただきます」
ハンスがそちらに駆け寄った。
「井倉君、ほら、ハムサンド。食べないと夜、お腹が空いて眠れなくなりますよ」
ハンスが笑って取ってやった。
「あ、ありがとうございます」
井倉はそう返事をしたが、とても喉を通りそうになかった。

(幸せだ……。)
井倉は潤んだ瞳で周囲を見回す。
「僕、今日の日を一生忘れません」
夢見るような表情で井倉がハンスを見ると、彼はにこっと微笑んだ。
「これで、あとお子様ランチがあったら完璧だったのにね」
そう言ってウインクする。

(お子様ランチ……。そうだ。すべてはそこから始まったんだ)
あの絶望の淵から、ハンスが彼を救い上げてくれた。井倉はまだ、信じられないような気がした。すべては夢だったのではないだろうかと、思わず自分の手の甲を抓ってみた。痛みを感じた。
(よかった。夢じゃない。僕は本当に……)
喜びが込み上げて来た。ハンスはまだそこでフルーツを摘んでいる。
「それじゃあ先生、明日はお子様ランチを食べに行きましょう」
井倉はうれしそうにそう言った。
「ふふ。いいですね。それじゃ、決まり!」
ハンスも笑う。皆は何のことだかわからずに顔を見合わせていたが、やがて誰もの心に穏やかな温もりが伝わって、自然と微笑みを交わし合っていた。